
悪いクセがあります。
自分の短所なんて嫌というほど見つかるけれど、ひとつだけすぐに直せるならば、まっ先に選ぶべきこと。
いま考えれば生意気で、相手の気持ちに寄り添えていなかったな、と反省するばかりです。
アニソン歌手をライフワークとするわたしと、会社を継いでほしい父。
生き方について議論することが増え、争うたびに培われた達者な口。
ほとんどの人は見なくて済んでいる、大切であればあるほど傷つけてしまう一面。
気を許すと顔を出す、もうひとつの表情。
二重人格とまで言われた、絶対に見せたくない、見せてはいけない姿。
もっと人間的な感情、たとえば、寂しかったり構ってほしかったりするかわいらしい甘えでさえも一蹴してしまう。
わたしの悪いクセは、正論で論破してしまうこと。
いい機会だから、真剣に向き合ってみようと思います。
もうひとりの自分

議論に負けたことはありませんでした。
ああ言えばこう言うとは、まさにこのこと。
納得いかなければとことん詰め、脅迫的にまで思われたでしょうか。
自覚したのは、ついこのあいだのことでした。
顔が変わった、と言われたのです。
言っていることは間違っていないけれど、徹底的に追い詰めるからきつい、と。
落ち込ませてしまいました。
自分の中に、押してはいけないスイッチがあるようです。
どんなに仲のいい友達にも誰ひとりとして見せてしまったことはありません。
犠牲になるのはいつも、家族や身近な存在になる男性。
話している時の記憶はあるし、人格を否定するようなことも言ってはいないのです。
正しいことを並べ、裏付けや原因・理由を述べる。
いつもの二倍以上の早口を武器に、相手の理解が追いつかないスピードでまくし立てる。
反論の余地を与えず、気がつけば、理不尽な意見は徹底的に潰してしまっています。
揚げ足を取り、逃げ場をなくす。
何よりまるで、鬼のように狂気じみた怒りに支配されているようだったそうです。
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スイッチONのタイミング

家族
夢を壊す大人が嫌いでした。
無理に決まってる・できるわけがない、とすぐ口にする大人たち。
押し付けてこられると、一瞬にしてそのスイッチが入るのが、自分でもわかります。
だいたいの人については最初から諦めていました。
議論を交わらせても理解してもらえることもない、理解してもらう必要もない。
その過程も長くて消耗するだけだから陰で言わせておこう。
そう判断していました。
ただ、家族だけはダメで。
わたしは家族のことが好きでした。
当時はまだ、愛情と信頼をごっちゃにしていました。
誠心誠意きちんと伝えればわかってくれるに違いない、と盲信していて。
今ではわかりますが、どんなに本気で話しても、理解してもらえないこともあります。
自分の意見があるなら、相手にも意見がある。
自分にできるのは自分の意思を誤解なきようハッキリ伝えることだけで、相手の考えを変えさせることはできません。
変わるとすれば、相手が自発的に共感して、相手の意思で勝手に変わります。
どうして反対ばかりされるのか、どうしてわたしの希望を喜んでくれないのか、どうして理解してくれないのか、全然わかりませんでした。
理解できない、そして、理解したくなかったんだということ。
あの時のわたしは、それがわかりませんでした。
あまりにも困らせる親しい人
長女として生まれ、物心ついた頃には、人に迷惑をかけないことを強く意識していました。
だからか、わがままを言って困らせる人が理解できませんでした。
この人だけは絶対に傷つけたくない。
今度こそ、穏やかに過ごしていくんだ。
とても好きなひとができたとき、固く決意しました。
この時はまだ、自分の論破癖に気がついていませんでした。
時間をかけて築いた信頼関係を壊さないよう、あんなに真剣に誓ったのに。
気がつけば目の前の人は、悲しく泣いていました。
なぜ討論になってしまうのか、ずっとずっとわかりませんでした。
いま思えば、なんてかわいいわがままだったんだろう。
どうしてわからなかったんだろう。
その「迷惑」はかけたくてかけているんじゃない。
好きだからゆえにかまってほしくて、さみしくて口にするわがままでした。
気を許した存在にしか見せない奥深くの姿を、わたしは突っぱねてしまった。
「仕事とわたし、どっちが大事なの?」ではないけれど、それに近い内容でした。
時間や都合のつくときに会えばいいと、いつもの可愛くない正論を放ちました。
得体の知れない何かに追われている感覚が常にあって、当時は余裕がありませんでした。
無自覚でしたが、あの時のわたしは、大嫌いだった大人側の人間になっていました。
どうしてそんなことを聞くのか、立ち止まって聞こうとしなかった。
相手ありきの問題なのに、まっすぐ向き合っていませんでした。
それでも伝えようと、本当は口にしたくないかもしれない感情まで教えてくれたのに。
「さみしかった」という、とても人間らしい心の動きに気づこうとしていなかったのです。
悲しませてしまった、泣かせてしまった。
わたしはいつも、正しいかどうかで論破してしまっていました。
正論なんかよりも、相手の気持ちに寄り添うことが大切だと知りました。
やさしくなかった。
ごめんなさいって、今なら言える気がします。
そしてそのことに気づいたのもまた、つい最近なのでした。
もっと甘えたいけれど

迷惑にならないように、気を使うことがデフォルトでした。
いつしか、甘えたくても甘えられない性格になっていました。
甘えられる人がうらやましかった。
本当はもっと甘えたい。
可愛いわがままを言ってみたい。
でも怒られるんじゃないか。
叩かれるんじゃないか。
嫌われるんじゃないか。
瞬間的に怯えてしまうのは、一瞬出るであろう困った顔を見たくないからなのか。
今はもう関係ない過去の記憶に縛られているだけなのか。
こんなことを言ったら困らせるだろうな。
先回りして考え、お願いしたいことも甘えたい気持ちも、たくさん飲み込んできました。
それなのに、それなのに、あなたは意味のわからないわがままをぶつけて困らせるなんて。
そんな幻滅が、どこかにあったのかもしれません。
甘えられることはとても好きです。
頼りないわたしを頼ってくれるなんてと、嬉しくなります。
けれど、親しくなればなるほど、気をつけなければなりません。
理不尽なことは言わないに決まっている。
困らせることをするわけがない。
自分が好きになったひとは完璧だなんて傲慢な期待をかけて、自分勝手なフィルターで相手を見てしまわないように。
やさしくなりたい
こんな一面を晒さないで済むようになりたい。
わたしはこれから一生、穏やかで平和に生きていきたい。
読み返してみるとわたしの文章の多くは尖っていて、優しさのかけらも感じられません。
強気な意見を放つのは、今まで押さえつけてきた感情を掬っている部分があるんだと思います。
隠した醜い弱さを守る、自分なりの鎧でした。
挑発的で攻撃的な文章を書くのは、鎧という弱さを覆った表面を削ぐための作業なのかもしれません。
自分を浄化する手段として、文章で残すこと。
綴っていくことを選んだのかもしれません。
周りにはやさしいひとがたくさんいます。
わたしも優しくなりたいなって思っています。
オピニオンブロガーしゃなり(@syanario)より。
しゃなりぉー!(・ω・)/
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