「世の中そんなに甘くない」
何度聞いたかわからない言葉。
自然と頭をよぎるほど聞き慣れてしまった言葉。
無謀だと思われることに心惹かれる人は危なっかしくて、見かけると思わずこんな言葉が漏れそうになるのもわかる。
でも、わたしは言いたい。
甘くないからなんなのだろう。
だからやめとおけとでも言うのだろうか。
私はその人の人生に憧れてない
わたしが憧れる人たちは、一度でも「世の中は甘くない」と口にしたことがない。
彼ら彼女らは自分の可能性を信じていて、だれかの足を引っ張ることも絶対にしない。
わたしが素敵だと思うのは、自分の人生を楽しんでいる人だ。
他人の人生に口出しするのは余計なお世話で、求められたとき以外に意見するのはおこがましい。
甘くないと語るのは「お前にできるわけがない」といった否定的なニュアンスが含まれている。
確かに、そう語る本人にはできないのだろう。
その人とわたしは違う。
できるかできないかは結果論だ。
透視能力でもない限り、やってみる前から結果は見えない。
忠告されなくても自分の道は自分で決めるし、ましてや憧れていない人からのアドバイスなんて全然いらない。
才能の有無で物事を決めたら何もできない
生まれたときからダンスが得意な子がいる。
目が見えないのに、導かれるようにピアノを操る子がいる。
彼らを天才という。
そんな人たちは放っておいても才能を見出され、スカウトにもあうしオーディションだってすんなり通ってしまう。
英才教育も才能のひとつだ。
子どもの頃から歌を教え込まれ、日々練習に明け暮れる。
物心がつくずっと前から芸に触れる環境にあったり、スポーツ施設に通うことを当然とする環境に生まれるのは運だ。
一般的には、気づいたら平凡でなんの芸もない人材に育つ。
うちはそんな環境なかった、わたしには何もない。
でも、興味をいだいたものがある。
それなら、大きくなってからでも存分に取り組んだらいいと思う。
わたしもそうだけれど基本的に一般人は、才能ある人から見ればどんぐりの背比べほどの微差を競うしかない。
昨日の自分より少しマシになった。
1ヶ月前の自分とは結構変われた。
この差を目指して切磋琢磨するしかない。
才能がないからと諦めるのは逆にすごい。
やってもいないのに才能がないと判断できる「見る目」があるということだから。
でも実際、よほどの目利きでなければそんな目は持っていない。
やめろと止められてやめられるなら、そもそもそこまでしてやりたくはなかった夢だともいえる。
あるのかないのかわからないのが才能で、結果が残せたときに他人が勝手に認める魔力的な存在だ。
そんな幽霊のような「才能」に振り回されなくていい。
才能なんて気にせず、わたしはやりたいことをやってきた。
後悔していることは何ひとつないと強く言い切れる。
今までの決断に後悔はない
ふつうに会社員として過ごす20代より、音楽をやった20代はおもしろかった。
周りからどう言われようと、語れることがたくさんある。
一回、思い切って(というか勢いで)上京してよかった。
東京に放り込んで感じた経験が、誰にも得られない自分だけの一次情報が、生で手に入った。
そこから次のステップにいけるのだとわかったのは、自分の体を使ってがむしゃらにもがいたあのときがあったからだ。
昔は感じなかった自然のありがたみも癒しも、特に感慨のなかった地元が好きなことにも気づけた。
いつまでも東京に憧れなくて済んだ。
後悔したって誰も救ってくれない
わたしは死ぬときに夢を見たくない。
あのとき本当はやりたかったことがある、もしあのときに戻れるならこれがやりたい
そんなことは絶対に言いたくない。
あのときに戻れることは一生ないし、やらなかった責任を誰にも押し付けたくないからだ。
長く生きていれば体力も落ち、少しずつ弱っていく。
心までも弱くなってしまわないように、これからの人生でいちばん若い今を精一杯生きてほしい。
この記事を読んで、少しでも役に立ててもらえたら嬉しいです!
読んでくれてありがとう。
しゃなりぉー!(・ω・)/
オピニオンブロガーしゃなり
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